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シェフ達のヒーローズ・ジャーニー(英雄の旅)

壷中天 オーナーシェフ 上井克輔氏 



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幼い頃の記憶では、母親も祖母も料理が美味かった。
祖母は鶏ガラから出汁をとってインスタントラーメンを作るような人だった。


中学の時、両親は離婚。
母親は朝から晩まで働き、母子家庭のいわゆる鍵っ子であった。
二つ下に弟がいて、週末は兄である上井シェフが当たり前のように食事を作った。


高校時代は、母親が仕事で留守が多かったため、家はおのずと上井シェフの悪友
(あえて悪ガキ)のたまり場と化した。
はじめは、4~5名が最終的には40名に膨れ上がることもあった。
上井シェフが和洋中の家庭料理本6冊にのっている料理をすべて作って食べさせた。
費用もかかるため、入口のドアの下から現金を出す者だけが入室を許された。
まるで「秘密クラブ」である。
この頃から飲食店経営の才があったのか?


こんなハチャメチャな高校生活を送っていたせいか、大学受験に失敗し、
母親から強制的に鹿児島の祖父母のもとに行かされることとなる。
元来、親分肌で仲間と群れることがこの上なく楽しかった上井シェフにとっては、
鹿児島での生活は退屈で、寂しいものだった。
そして、ある時自転車を買ったことからツーリングにのめり込んでいく。


最初は、霧島まで、次に薩摩半島一周、さらに南九州一周、
最後には名古屋まで自転車で帰ってくるという有様である。
そして独立心が強く、あまり人に使われるのは好まなかったが、大学受験を諦め、
飛び込んだのが「鳶職」であった。
従業員7人程の小さな組で、全くの別世界であった。
先輩に付いて、厳しくしごかれるが直に辞めることとなる。


母親からはこっぴどく叱られ、一枚のメモを渡された。
そのメモには2つの電話番号が記されていた。
一つは、東京の仲代達也の「無名塾」
もう一つは、大阪の「吉本興業」であった。
このハチャメチャな息子の行く末はこの二つくらいしかないと
真剣に思ったようである。


しかし、結局決めた仕事は便利屋。
当時としては破格の時給1200円に引かれたのである。
バブルの最中、仕事は次から次へとあった。
学歴はないが同僚は面白い人ばかりであった。
将来の事をいろいろ考えている人が多かった。
月に35~40万は楽に稼げた。
結局このアルバイト生活は1年半続いた。


そして客の一人からの誘いもあり、独立して20歳で会社を設立する。
大型飲食店の出店ラッシュがあり、内装工事の仕事が多く舞い込んだ。
オープンして1日の来客数が2000名、売上1000万/1日の大型店である。
異常な世界であった。
この様子を裏方として見ることができ勉強になった。
自分でも焼鳥屋のチェーンでもやろうと決心した。


飲食店での仕事の経験が少なかった上井シェフは、
名古屋・住吉の949(くしきゅー)という大皿料理と焼鳥の店で働くことになる。
客層は8割が女性客。
注文するメニューは洋のテイストの入ったものが多かった。
例えば、米茄子のグラタンとかカニクリームコロッケのような類である。
ここでこれからは洋のテイストが女性に受けることをインプットされる。


そして、この店の店長が3カ月後に移籍することを知る。
その店長に誘われ、一緒に移籍することになるのだが
料理を学びたかった上井シェフはお願いして移籍先グループの本店「ビストロ・セザール」に
配属される。
しかしマスクも良く、客あしらいもうまかった上井シェフはホール見習いとしての入店となる。
なかなかキッチンには入れてもらえない日々が続いた。


そこで秘策を考えた。
朝の4時半から出勤してホールの仕事をすべてこなし、8時半にシェフの出勤を
待つという作戦である。
もうホールでのやる仕事のない上井シェフに徐々にキッチンの仕事が回ってくるようになった。


1年半程勤めて、割烹料理店への転職が決まっていた頃
六本木 オーミリューの山村幸比古シェフが岐阜で「ラーモニー・ド・ラ・ルミエール」
というフレンチを開店したという話を聞き、早速食べに出かけた。
そこで衝撃的なフレンチとの出会いが待っていた。
すべてが美味い。予想していない味。
弾丸で後頭部をいきなり撃ち抜かれた気分である。
こう来るか!という感じである。
最後には言葉も出てこないで押し黙ってしまった。
それ程の衝撃であった。


キャッシャーで会計する時には
「この店で働かせてください!」と言っていた。
割烹を断ってすぐに入店することになる。
またしてもハチャメチャである。


しかし山村シェフは甘くはなかった。
徹底的にしごかれ、叩きあげられた。
そして山村シェフの料理の考え方はブレがなく間違っていなかった。
今から思えば上井シェフを見込んでより厳しくしたのである。
半年で魚を任され、1年後には幸運にもスーシェフとなるのである。
異才「山村シェフ」のもとで多くのことを学んだ。


「ラーモニー・ド・ラ・ルミエール」で4年が過ぎた時、フランス行きを決める。
27歳であった。
以前から休みの日に研修に行っていた山村シェフのシェフ仲間(東京)の店で勉強しながら
別の大箱のレストランでも働き、渡航費を貯めた。
シェフ仲間の店とは、アラジン、ラ・ブランシュ、ベール・ド・ジュール、シェ・麻里お、
ル・ジャルダン・デ・サヴールである。


7,8ヶ月後、フランスへと思っていたが、当時はEU統合の直前で、EU本部がアルザスに
あったこともあり、フランスは外国人の不法滞在に厳しく、なかなか許可がおりなかった。
そうこうしている時にイタリア・ベネチアの近くのパドヴァと言う町の「レ・カランドレ」という店から
声がかかった。
イタリアではフレンチの経験のあるシェフは優遇されるのである。
その店を2つ星にした弱冠23歳の2代目シェフもフランス帰りであった。(現在3つ星)
イタリアのレストランは後継ぎをフランスに修業に出すことが多いようである。


「レ・カランドレ」を4カ月で辞め、ワイナリーの人の紹介で、トレビソという町の郊外にある
「オンブレロッセ」というトラットリアで働く。
お母ちゃんのような女主人のシェフとホールは旦那さんが仕切る家族的な店で、
夜には6、70人の客でごった返す繁盛店である。
メニューはいたってシンプル、品数も極端に少ない。
しかし、めちゃめちゃ美味い。
フレッシュなモツァレラチーズなどを使った圧倒的な素材感のある料理である。


パンはあまり美味しくないイタリアでその店のブルスケッタは最高であった。
焼いてるパン屋を紹介してもらい、レストランの仕事が終わった深夜から
今度はパン屋で働くというハードワークをこなした。
今では考えられないことである。


その後は、ワイン関係者の紹介でアルザスのワイナリー「ジョスメイヤー」に滞在して、
ワイナリーの仕事を手伝いながら、ワイナリーのお嫁さんの作る料理を勉強した。
このお嫁さんの作る料理は格別に美味しく、日本からシェフが修業に来るほどであった。
他にも、クロコディールやオーベルジュ・ド・リールでも研修を受けた。


そして、ようやくパリで働く日がやってきた。
上井シェフにとってパリは相性がよく、地方都市と違って人種差別も少なく、料理の腕に応じて
職種も上がっていく公平な気質が気に入っていた。
先ずは生活費を稼ぐため「プティクール」というカジュアル店で働いた。
一人で12種類の前菜を朝から作り続けた。
MAX150人入れる大箱である。
凄まじい忙しさであった。


ホテル・クリヨンのクリスチャン・コンスタンの3人の弟子の店「シェ・ミッシェル」、「ラ・レガラード」、「エリック・フレッション」がネオビストロブームに火を付ける直前であった。
そんなこととは知らず、この3店は気に入って、よく食事に通っていた。


そして幸運にも「シェ・ミッシェル」で働くチャンスを得た。
丁度、日本人の女性スタッフが辞めて、その後釜に入れたのである。
シェフのティエリー・ブルトンはブルターニュの郷土料理にフューチャーして、シンプルだけど
毎日食べても飽きない美味しい料理を作っていた。


「ラ・レガラード」のシェフ、イヴ・カンデボルドは、例えばテリーヌはテリーヌ型ごとテーブルに出すようなボリュームのある料理構成であったが、これもまた本当に美味しかった。


「エリック・フレッション」は、他の二人よりは高級料理の枠(フォンをしっかり取るような)の中で
200フラン(4000円程度)のプリフィクス(一定の価格のコース料理で、オードブルやメイン料理をそれぞれ数種類のリストから自由に選べるスタイル)を出していた。
このスタイルは後々上井シェフにとって大きな影響力をもってくる。


1997年当時、フランスは不況の真っただ中で、グランメゾンやホテルのレストランは厳しい時代であった。
このような背景の中、この3人を中心に新しい流れ「ネオビストロ」が台頭してくる。
彼らがしっかりとしたコンセプトを持って切り込んだことが重要であった。
上井シェフにとっても、この時代の新旋風をその渦中で体験できたことは大きかった。


そんな時、急遽帰国することとなる。
周囲の勧めもあり、日本での仕事を探すが、なかなか見つからず
長良川で釣り三昧の毎日であった。
いろいろなことがうまくいかず、悩み、フレンチを辞めようとまで考えたりもしたが、
タイミング良く「ラーモニー・ド・ラ・ルミエール」の山村シェフからシェフとして
来ないかと声がかかった。


ネオビストロをはじめ、自分が海外で得た経験を生かす大きなチャンスとそれに充分見合った
ステージであった。
しかし、実際にはプリフィクスも思うようにうまくいかず、
またそういう時はすべての事に不具合が出てくるものである。
悔しさと申し訳なさの思いの中、1年で職を辞することになった。


もしこの経験がなかったら、現在の「壷中天」のオープンも乗りきれなかったのではないかと・・・・
また、今から思えばこの時の悔しさや遣り通せなかった心残りが、
「壷中天」のコンセプトに繋がっていることも・・・・
山村シェフとマダムには本当に感謝している。


そんな頃、
名古屋市北区の料亭「志ら玉」から初釜で忙しいので手伝ってほしいとの申し出があった。
そこで「茶の湯」というまた新たな世界との出会いがあった。
究極の和のもてなしの心である。
西洋のもてなしの考え方にずーっと疑問を持っていた上井シェフは
「これだ!」と思った。
たった3カ月であったが上井シェフの人生を変えた3か月となった。


茶の湯という和のフィルターを通してフレンチを進化させていくことで
最初の「壷中天」オープンへと繋がっていく。
中国の椅子文化に和のテイストを取り入れ、店名、内装、調度品、、、
と手作りで作り上げていった。


フレンチという業態、立地、コンセプト、、、周りの反対を押し切っての出店であった。
なかなか思うように集客できず悪戦苦闘の8カ月、一旦店を閉め、再オープン。
そんな最中、結婚が決まる。
パン職人でもあった奥様はスタッフとしても働く。
毎日、閉店後、深夜3時までテーブルクロスのアイロンがけをしてくれた日々もあった。


そして第一子が誕生するときも、前日まで店で働き、
陣痛が起こってから自分で車を運転して自宅に帰って翌日出産。
さらに第二子誕生の時などは、クリスマスディナーの真っ最中にどうしても店が回らず
呼び出され、閉店と同時に陣痛が来て、一旦帰宅、翌日のチュール(菓子)を焼いてから
病院に向かって、出産!!
凄まじい生き様である。


さらに、奥様は、無骨で男気の強い上井シェフとスタッフとの間に立って、
潤滑剤の役割も果たしてきた。
このことは、現在の壺中天でも変わりはない。
まさしく内助の功である。


また「壺中天」を語る時、スタッフの戸田秀和ソムリエの存在は外せない。
戸田ソムリエとは当初はお互いの店に食事に行く程度の関係であった。
ある日、戸田ソムリエが友人と二人で夕食に「壷中天(最初の)」に来店した。
当時は、客も少なく、その日の予約は戸田ソムリエ一組だけであった。


しかし、そんな暇な店なのに食材はなぜかべカス(ジビエで最も高級な山シギ)があったのである。
戸田ソムリエはその美味しさに、しばらく他のものが口に入らないほど感動した。
そんな時、上井シェフから一緒に仕事をしないかとの誘いを申し出る。
戸田ソムリエは何と涙を流して、喜んでその誘いを受けた。
断られるのではと内心ドキドキで話した上井シェフは、涙を流して喜んでくれるとは
かえって逆に驚きであった。


だが、当時の「壷中天」は戸田ソムリエの給与を支払える状態ではなかった。
丁度その時、「壷中天」の上の店舗に空きができ、上井シェフと戸田ソムリエと二人で昼間
ペンキを塗って、ワインバー「ラフェット」をオープンさせた。
なんとか給料を稼いだ。
そんな綱渡りの毎日であった。


戸田ソムリエの穏やかで優しい語り口に癒されるファン(お客)も多く、
「壷中天」+「ラフェット」、「上井シェフ」+「戸田ソムリエ」のコンビは今も変わらず
「壺中天」の大きな特色となっている。


店内に盆栽を配し独特の世界観を表す上井シェフのもてなしの心はあくまでも「和」である。
移転を機に全く別のコンセプトのフレンチに生まれ変わった「壷中天」も2年目を迎え、
「料理人の顔」と「経営者の顔」を持つようになった上井シェフにとって、これからの
さらなる展開が楽しみである。


http://www.hotpepper.jp/strJ000805511/

取材  名倉裕一朗 2012.01.24.

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