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シェフ達のヒーローズ・ジャーニー(英雄の旅)

antica osteria BACIO オーナーシェフ 坪井卓哉氏 



画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明                                         
ごく普通のサラリーマンの家庭に生まれました。
父は、週末には必ず自宅のキッチンに立ち、フレンチトーストやケチャップ味のスパゲッティなどを作ってくれ食べることが大好きな人でした。
そんな父の背中を見て育った坪井シェフは、当時すでに料理人になることを決めていました。

高校卒業と同時に、大阪の辻調理師専門学校に入学。
何を専攻するかで迷います。
刺身等の生魚が苦手で和食はNG、中華は勝手な思い込みでピンとこなくてNG、
消去法で、残ったのは、フレンチとイタリアン。
当時はバブル期の真っ最中、イタリアンといえばピザとパスタのイメージが強く、フレンチと比べると格下の印象があり、結局フランス料理専攻科に入学することになりました。

さて卒業後の進路ですが、当時はフレンチと言えば、大手シティホテルのメインダイニングが主流。村上信夫シェフの帝国ホテルと小野正吉シェフのホテルオークラが2大勢力でした。
坪井シェフはホテルオークラに応募しました。
同期入社はシェフだけで40名と驚く多さです。
しかし、1年後に残ったのは坪井シエフたった一人。

入社当時の坪井シェフは、耳にピアスはつけてやんちゃなイメージで、会社では一番早く辞めるだろうと思われていました。
見習いシェフというのは過酷な職場環境で、殴る、蹴るは当たり前、ジャイアンツが試合に負けただけで機嫌が悪く、当たり散らされることは日常茶飯事。プライベートの時間もなく、同期達は瞬く間にやめていきました。
その一年は坪井シェフにとっても決して楽しいものではありませんでした。
しかし、持ち前の負けたくないという悔しさから頑張り続けました。

職人の世界というものは不思議なもので、そこを乗り越えれば、いじめていた先輩たちも、残った坪井シェフをかわいがり、料理もいろいろ教えてくれました。
この境界線を乗り越せるかというのがプロフェッショナルとしての意識の境界線でもあるのです。

オークラでの5年が過ぎた時、一つ目の転機がきます。
料理人というものは、いつか自分の店を持ちたいという夢があるものです。
坪井シェフもそんな夢がありました。
でもいきなり独立ではなく、ホテルの大きなレストランは経験したので、今度は街場のレストランを勉強したいと考えました。

そんな思いが通じたのか名古屋の飲食店の社長から声を掛けられました。
そのオファーはイタリア帰りのシェフとのコラボレストランの話でした。
オークラでフランス料理を学んだという自負から一瞬のためらいはありましたが、持ち前の決断力で、そのオファーを受けることにしました。

いっしょに働いてみると、そのイタリア帰りのシェフの作るパスタはムチャクチャ美味いのです。
イタリア料理に対するイメージが変わっていきました。
フランス料理にもヌイユ(ヌードルの語源)という麺料理ありますが問題になりません。
「フレンチにもパスタがあれば?」と多くのフレンチシェフが嘆くポイントですね。
イタリアンにとってパスタの存在は強力です。

そして、イタリアの星付きレストランで働きたいという思いが込み上げてきました。
幸い、一緒に働いていたイタリアンシェフの紹介で行くことが決まりました。
何はさておき言葉が話せないことにはということで1年間毎日イタリア語のプライベートレッスンを
受けました。単語だけはたくさん覚えました。

坪井シェフの中には日本人としての感覚でイタリア人とのセッションがしたいという思いがありました。人間追い込まれると言葉も覚えます。
最終的には会話の細かいニュアンスまでも解るようになりました。

先ず修業したのは、トスカーナ州のレストランです。
レストランといえどもイタリアではサマーバケーションとして一カ月休みを取ります。
その時間も惜しく、バケーション中でも営業している一つ星レストランを紹介してもらい、ナポリ湾に浮かぶイスキア島(青の洞窟で有名なカプリ島の隣)で働きました。

1年の中心はトスカーナで、夏は避暑地でと約3年半が過ぎました。
しかし父が急に倒れ、帰国することになりました。

本人的にはすぐにでもイタリアへ戻るつもりでしたが、なかなか戻れずじまいの日々を送っていると、ある方からの話が飛び込んできました。

名古屋の女子大小路・池田公園の南側にある物件でレストランをやらないかという話です。
家賃は要らないから、内装は自分でやってくれとのことです。
池田公園といえば名古屋の方はおわかりのように、まさしく東京でいえば新宿、時には中国人マフィアによる抗争事件があったりして、ちょっと怖いイメージの地域です。

でもイタリア行きもそうでしたが、持ち前の決断力で出店を決意します。
店名は「エジソン」。
イタリア修業時代、お金の余裕のない坪井シェフにとっての学習の場が、フィレンツェの共和国広場の前にあった本屋の「エジソン」でした。
http://www.atspcom.jp/italia/shop/edison/edison.html
カフェのような場所もあり、ゆっくりと料理の本を読むことができました。
お世話になった本屋の「エジソン」に敬意を表してこの名前を店名にしました。

客層は案の定イタリアンを楽しむような層ではありませんでしたが、すぐ近くに広告代理店があり、クリエーターなど店のコンセプトを面白がってくれる方が増え、予想に反して順調な滑り出しとなります。

しかし、繁盛してくると予想外の契約条件の変更(家賃の支払い)などの問題が生じてきました。
そんな時、顧客の一人から声がかかります。
出資をするからもっと違う場所で店を出さないかという話です。
借金もしていたので悩みましたが、これまた持ち前の決断力で移籍を決めます。

移籍に際して坪井シェフの出した条件は3つ
1.「エジソン」という屋号を使う。
2.物件選びとスタッフ選びはすべて自分が決める。
3.1年後にもし採算が取れていなかったらそれなりの責任を取る。

決断の裏に彼なりの勝算があったのが伺い知れます。

新生「エジソン」は東区泉2丁目。
坪井シェフは料理を作るだけではなく、フロアにでて、顧客へのサービスも積極的にこなしていきます。当然顧客からもいろいろな質問が出てきますので、彼自身も勉強することになります。
特にワインは頑張りました。多くの種類を飲み続け、詳しくなっていきました。

この時代に、「レストラン経営のいろは」を学び、多くの質の良いファン顧客を獲得していきます。
過去、話が苦手であったのが、接客のプロとしても顧客ときちっと対応できるようになりました。
しかし、坪井シェフの中にはやはり自分の店が持ちたいという思いがあります。

そんな時、またまた声がかかります。
やはり顧客で、長年スペイン料理店を市内で経営されていたご夫婦が高齢のため店を閉めたいので引き継いでくれないかというのです。

そして、決断して、現在のantica osteria BACIOを開業しました。
http://r.gnavi.co.jp/n850900/
思い入れのある「エジソン」という名前は置いてきました。
店舗の立地も悪く、全く新しい店名でのスタートです。
今回の決断は特に重かったようです。

しかし、坪井シェフには根拠のない自信(彼曰く)がありました。
そして、開業3年が経ち、素晴らしい繁盛店になりました。

実は自信には根拠があったのです。
「エジソン」で実践してきた7年間そのものが彼の自信を作ってきました。

このインタビューの当日、坪井シェフが私に語った言葉が心に残ります。
「こうして私が今、名倉さんとゆっくりとお話ししていられるのも、今夜の料理のスタンバイがすでに完璧に済ませてあるからです。」

裏付けのない結果はあり得ないのですね。
プロとしての言葉、顧客への責任感を強く感じさせていただきました。

取材  名倉裕一朗 2012.01.11.

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