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「シェフ達のヒーローズ・ジャーニー

蓬左茶寮 主人  松本善隆 氏 



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高校時代は名古屋市北区の伝説の喫茶店(今風に言えばカフェ)
イースターハウスでアルバイト。
メニュー、食材、提供方法がすべて目新しく、刺激的で楽しくてしょうがなかった。
ホールからコーヒーカウンター、そして調理場へ。
結局、大学受験を諦め、そのまま就職。

ホテルオークラ出のシェフの下ではフレンチを。
イタリア人のシェフの下ではイタリアンとワインを。
先代の母親からは魚屋・仕出し時代の魚の目利き、鰻のタレ・・・
和食を学ぶ。

調理を続ける中で地場の三河湾の魚介や尾張の野菜や
味噌・醤油・味醂など調味料の素晴らしさに出会っていく。
いつの日か地元の食材を使った名古屋料理を構想するようになる。

徐々に仕事も調理だけではなく、幹部として新店の開発にも
携わるようになる。
そんな時、名古屋城近くの面白い物件の紹介があった。
即座に名古屋の食材を使った料理とワインの店の出店案を会社に提案する。
結果はNG。却下された。コンセプトが難しすぎるという。

しかし、どうしても諦めきれずに退職をして自ら出店を決意。
「大名古屋食堂」の誕生である。
だが、家族も親戚も大反対!
特に店名か良くないという。
せめて「大名古屋」の「大」だけでもとってくれと言われる始末。

強引に出店に踏み切るが、自分の予想に反して客が入らない。
食堂と間違えて入ってきた客はメニューをみて、
「急用を思い出した」と帰ってしまうこともあった。

ところが、当時のタウン誌「kelly」「cheek」などに取材を受けると
クチコミで評判が広まり、客が入り始める。
2年目には昨年対比200%という好調ぶりである。
3年目にはほぼ毎日満席状態が続いた。

その後、惣菜店「おかず市場」、錦に「大名古屋食堂ポワソンドール」、
味噌カツの「尾張とんかつ中京」を出店するが最終的にはどれも閉店した。
飲食店の難しさである。

2000年には、「大名古屋食堂」の常連だった「ステーキのあさくま」の
近藤誠司会長(当時)から「息子にあとを継がせるが、本人は料理は素人なので、取締役総料理長になって支えてやって欲しい」と言われる。

そう言うといきなり店近くのキャッスルホテルの写真室で写真を撮られ
次の株主総会では新役員として挨拶することになった。
店は続けることを条件に引き受けることにした。

実際、中に入ってみると、56店ある店舗の半分は赤字という状態であった。
組織も完全に硬直しており、新しいことへの試みが出来る状況ではなかった。
先ずは自分ができることとしてメニュー・レシピーの改良を始めた。
徐々に成果が出始め、売上も下げ止まり、社内でも理解を示してもらえる人も出てきた。

近藤相談役(引退して)には、いろいろと海外へも連れて行っていただいた。
ハワイやシカゴの先進的なレストランを視察させていただき、
モダンな無国籍でエンターテイメント性の溢れた店作りに大いに刺激を受けた。
本当に感謝している。

「あさくま」での仕事も2年目に入り、業績も順調に推移してきた矢先、
例の「BSE事件」が勃発する。
売り上げは一気に急降下。
前年の70%、60%という有様である。
チキンやロブスター・シーフードを投入するも全く効果は上がらなかった。
このままでは誰かが責任を取らなくては次期株主総会が乗り切れないということで料理長である自分が辞任して決着をつけることにした。

そうして2年ぶりに「大名古屋食堂」に帰ってくると、
優秀なスタッフのおかげで業績は順調であったが、
そこには以前のように自分の居場所はなかった。

そこで新店を出すことにした。
桜通沿いの錦3丁目に、「CREAM」というブラッスリーをオープン。
ワインがぶ飲みのカジュアルフレンチ・ビストロである。
しかし、これが大コケ。
3年間赤字が続いた。

一大決心をして改装。
ダイニングバーとして80席の大箱にした。
これが大ウケ、周辺に競合店もなく、流行りまくった。
土日は毎週1日2組ウエディングの予約で一杯となった。

こんな頃、今度は本店に陰りが見え始めた。
飲酒や駐禁の取締が厳しくなり、郊外店は軒並み大打撃を受けた。
丁度このタイミングで錦通沿いのホテル内のテナントの話があり、
本店の移転の決断をした。
ホテル内という立地で、宿泊客の朝食やブライダルの需要も見込めた。
当初は順調に推移したが、今度はホテル自体が休業することになってしまった。

真っ暗なロビーを通って、二階のレストランに来る客は少ない。
朝食もブライダルもなくなり、なんともならない状態となった。
10ヶ月後にホテルが再開するが客足は戻らない。


とうとう決断の時がきた。


資金繰りに追われ、料理からもはなれ、経営に奔走してきたここ数年、
本当に疲れきっていた。
移転も考えたが既にスタッフの気持ちが自分から離れているのがわかった。
料理を離れた自分に魅力がなくなっていたことを痛感した。

「CREAM」は当時の店長に売却、ホテル内のテナントも撤退して
会社も精算した。
大きな転機であった。


さぁーこれからどうするか?


この少し前からは農林水産省の地産地消の認定を受け、FOODEXのようなイベント、世界最大級の食品専門トレードショー、パリのSIALが中国に進出して開催するシアル・チャイナ(SIAL CHINA).でジャパンパビリオンでのプレゼンの仕事も任された。

しかし、これだけでは食べていくのも難しい。
そんな頃、昔からの知り合いである丸の内の「SYN」の
オーナーから声がかかり、手伝うことになる。
そしてグループ店の池下「よこ田」を手放したいとの話があり、
好条件で譲り受けることができた。

新店の名前は「蓬左茶寮」。
自分一人での再スタートである。

店名の由来をFacebookページから転載する。


蓬左とは熱田の宮の左に栄えた街「名古屋」をあらわします。
古来より西と東の交わる文化の要衝でした。
その歴史を背景に時代の求める美や新たな価値観を
打ち立てていく自由な創造の精神を表しております。

東海の豊かな山海の幸と伝統の食文化に
世界各国の最先端の技法を加えた料理で
日常を忘れ 楽しくリラックスしたひとときをお過ごし下さいませ。

転載終り

この文章の中にも松本氏の地元・名古屋への思いが満ちている。
2012年7月7日オープン。
まだ6ヶ月あまりであるが、料理と今一度、真摯に向き合おうとする
松本氏の今後の活躍はどのようになっていくのか?

最近もタイでの日本料理の普及への協力依頼もあり、
自店と対外活動とのバランスが課題となっているようであるが
やはり今回は自ら包丁を握ることへの意志はかたい。

「なごやめし」ではなく、「洗練された名古屋料理」の確立を期待したい!

                                   取材  名倉裕一朗 2013.1.04


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