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シェフ達のヒーローズ・ジャーニー(英雄の旅)

restaurant TSUKIDATE  オーナーシェフ 築館幸伸氏 



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大学は土木を専攻、飲食とは無縁であった。
しいて言えば、アルバイトは飲食店が多かったくらいである。

大学の休みになると、夏は北海道、春は沖縄に毎年のように行っていた。
北海道では寝袋を持って、ツーリングして回った。
花咲港では売り物にならない花咲ガニを山ほどもらい、
襟裳岬ではコンブをもらい、
旅で出会った人たちと料理を作って、語らった。

沖縄では、アルバイト先の焼鳥屋の大将に気に入られ、秘伝のタレのレシピーを授かった。
それを知った常連客の一人から、タレを持ってバーベキューを手伝いに来いと言われる。
その常連客は武蔵野音大出身のフルート奏者で沖縄の大学で教鞭をとっている音楽家であった。

これまた、その音楽家に気に入られ、結局居候することとなる。
その家では、目覚めるとともにクラッシックのレコードが掛けられ、コーヒー豆を挽く音と共に
ゆっくりと時間が流れていく。
夜は浜辺で、音楽仲間たちによるセッションが毎夜開かれる。
こんな別世界で毎日を過ごしていた。

フルートの先生は風体はいかつく、無骨な感じであったが、料理にもこだわりが強く、
包丁を使う姿はすこぶる繊細であった。
もちろんフルートの扱いも!

毎夜集まる人たちも、陶芸家、声楽家など芸術家が多かった。
次第に漠然とではあるが、こんなプロフェショナルを目指したいという思いが込み上げてきた。

小さい頃から学ばねばならない音楽家は、20歳を過ぎた自分には難しい。
残った選択肢は、陶芸家か料理人であった。
結局、料理人を選んだ。

大学卒業の年には、丁度名古屋にヒルトンホテルが開業する年で、
応募したところ採用が決まった。

23歳であり、本来であれば料理人の枠では難しいところ、
無理にお願いして調理場に配属してもらった。
配属はソースの部署であった。
料理人は170名ほどいたが、5人だけでヒルトン内の全店へのソースを作った。
結局4年間ずーとソースを作り続けた。

このままでは何年経てもすべての料理が覚わらないと思い
料理長が修業したカナダのヒルトンホテルグループ各店に紹介状を
送ってもらった。
しかし、丁度日本より早くバブルのはじけたカナダではなかなかいい仕事はなかった。

結局、待ち切れずいきなり単身フランスへ行くことを決める。
捨てる神あれば拾う神あり、運よく紹介状がもらえて
南仏のアヴィニョンの「プレオレ」という一つ星レストランに決まった。
http://ameblo.jp/narukamidou/day-20110904.html

修道院を改築して作られ、ホテルやプールも併設されていた。
日本のホテルとは違い、料理や食材も何から何まで触らせてもらえ、
作らせてもらえた。
ヒルトン時代はソースしか作れず、調理に対して飢餓状態であったため、
乾いたスポンジに水が浸みこむように、日本での数年間を1週間で習得した気分であった。
毎日が楽しくてしょうがなかった。

その店のシェフは当時MOFにチャレンジしていた。
MOF(国家最優秀職人賞Meilleur Ouvrier de France)とはフランス文化の最も優れた継承者
たるにふさわしい高度の技術を持つ職人に授与される称号で、その名誉は日本の「人間国宝」に相当するものと言われる。

三つ星シェフでも簡単には取れない称号である。
その年の課題は「ロニョン(腎臓)」。
毎日毎日まかないは「ロニョン」であった。
お陰で一つの食材に精通することの大切さを知った。
次の課題は「鹿」であった。

そして、とうとう彼はMOFを獲った。
その日から彼の周囲の世界は変わった。
テレビ取材が押し寄せ、知名度も、収入も格段に上がった。
その変化の凄さを目の前で見れたのは貴重な体験であった。

彼とは今でも付き合いが続いている。
TSUKIDATEに来店してくれたこともある。
その時も称号を勝ち取る人間の勢いのようなものを感じた。

パリが気になっていた。
思い切って南仏からパリに入った。
11月の真冬、零下20度、このままでは死ぬと思った。
仕事はなかなか見つからず
所持金も底をついてきた。

やっと仕事は決まったが、相変わらず貧しく、
特に休日はまかないが食べられないので朝からバケット1本である。
栄養失調になり、堅くなったバケットをかじって弱くなっていた歯が折れたこともあった。

そこで秘策を考え付いた。
外国人の知人を集め、休みの日は一人30フラン(600円)で食材を買い込み
料理を作って食べさせた。
お陰で栄養失調からは抜け出せた。

いくつもの店で働いた。
☆Faucher(フォシェ)/Paris<GM16>
☆☆Leon de Lyon(レオン・ド・リヨン)/Lyon<GM19>
☆Orsi(オルシィ)/Lyon<GM16>
☆☆☆Les Pres d'Eugenie(レ・プレ・ドゥジェニ)Michel Guerard/Eugenie-Les-Bains<GM19.5>
☆☆☆Cote d'Or(コート・ドール)Bernard Loiseau/Sauliu<GM19.5>
(注)上記レストランの☆はミシュラン、GMはゴーミヨの評価

そしてパリでの4年間が過ぎ、
郊外のロンシャン競馬場の近くレストランでシェフとして迎えられて働いた。
フランスで得た技術を存分に生かして調理するのが面白かった。
サービススタッフではなくシェフにチップを渡してくれる客もいた。
少し目立ちすぎたかもしれなかった。

ある朝、店の隣の住まいから店に入ると
武装したフランス国家憲兵隊(Gendarmerie nationale:ジャンダルメリ ナシオナル)に
取り囲まれ、不法就労の疑いで逮捕されてしまうのである。
一晩ではあるがフランスの独房を体験することになる。
明りはなく、小さなのぞき窓が空いているだけ、
トイレに至っては床に穴だけがあり、便器もないのである。

いろいろな経緯の末、無罪放免となるが、
事が大きくなったため日本大使館からは帰国を勧められ、
しばらくフランス国内を旅した後、日本に帰ってくる。
言葉では表せない体験であったと想像する。

フランスという国は料理人という職業が確立されており、
店を移籍するたびに「サティフィカ(勤務修了証?)」が発行され、
それによって次の店の就職がスムーズに決まる。
転職すればするほど信用が増していくのである。
しかし日本にはこういったシステムがないため人材の流動性も悪い。

またMOF(国家最優秀職人賞)のような称号も日本の料理界にはなく、
料理人の社会的地位もフランスに比べ格段に低い。

築館シェフはフランスでの貴重な技術を日本の何十倍というスピードで身につけてきた。
2003年のTSUKIDATEをオープンして以来、  http://tsukidate.info/
若い料理人たちに少しでもいい食材に多く触れる機会を作ってきた。
しかし、自分がそうであったように、乾いたスポンジに水が吸収されるがごとく
料理を覚えるためには、一旦乾いたスポンジにする時期も必要なのかもしれないと考えている。

フランスから帰国した当初は
荒げずりではあったが、人を感動させる料理を作っていた。
今でもそのマインドは絶やさないよう心掛けている。

料理に関する情報も増え、いい食材も手に入るようになってきた現代において
これから料理人が目指すものは何か?を日々考えている。

キーワードは「絞り込むこと」。
オールラウンドプレイヤーではこれからは勝ち抜けない。
一つの事に突き抜けた才能を開花させてこそ生き残っていける時代である。

素材としては「魚」、「昆布」に注目している。
これをどのように深掘りしていくのか?
ご自分で是非確かめてみてほしい。
築館シェフのチャレンジから目が離せない!

取材  名倉裕一朗 2012.01.26.

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